HISTORY 歴史

江戸時代、幕府の直轄地であり、八代将軍吉宗により、
桃園と呼ばれる庭園を設けた中野。

都心に寄り添う活気と文化の街

桃園|ザ・パークハウス中野タワー
江戸時代、幕府の直轄地であり、将軍家の鷹狩りの場でもあった中野。五代将軍綱吉は、現在の駅北口一帯に約30万坪もの犬の保護施設「お囲み御用屋敷」を建設しました。やがて八代吉宗は、その跡地に桃の木を植栽。「桃園」と呼ばれる庭園を設け、諸大名の憩いの場として供しました。その後、「桃園」は一般にも開放され、江戸の人々が咲き誇る桃の木の下で花見を愉しんだといわれています。

利便性の高い街としての歩み

甲武鉄道|ザ・パークハウス中野タワー
明治22年の甲武鉄道(現在のJR中央線)開通に伴い、中野には商店や住宅が増え、都市化が始まっていきます。また「中野」駅北側一帯には、明治期から昭和20年8月まで、陸軍関連の施設が置かれ、その後は警察大学校として利用されました。やがて大正12年の関東大震災を契機に、都心からの移住者が増加。住宅街が形成され、都心に寄り添う利便性が高い街として歩み始めます。

独自の文化を持つ駅と周辺施設が誕生

中野サンプラザ|ザ・パークハウス中野タワー
戦後から昭和30年代にかけて、中野区の人口は急激の増加。高度成長期の旺盛なニーズを受け、1958年にはショッピングアーケード「中野サンモール商店街(徒歩3分・約180m)」が、1966年には「中野ブロードウェイ」が誕生しました。また1973年にはコンサートホールとして知られる文化複合施設「中野サンプラザ」も完成。活気あふれる街として、その個性を確かなものとしていったのです。

飛躍のとき

まちづくり|ザ・パークハウス中野タワー
中野区による平成18年の「中野駅周辺まちづくりグランドデザイン」策定受け、駅前エリアの都市機能が活性化。その先駆けとして、平成24年、警察大学校跡地に「中野四季の都市」が街開きしました。以降、オフィスビルやキャンパス等の複合都市の誕生により、中野のイメージも大きく変化。今後も、さらなる都市開発によって、街は大きな飛躍を遂げようとしています。
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